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2019年9月 7日 (土)

刎頸の友。首はひとつきり無いから刎頸の友もこの世で完璧に唯一人きりである。

史記列伝第二十一 廉頗れんぱ蘭相如りんしょうじょ列伝

司馬遷著 野口定男訳 平凡社刊

 

 廉頗は趙の良将である。趙の恵文王の十六年、廉頗は趙の将軍として斉を伐ち、大いにこれをやぶり、陽晋(山東省)を取ったので、上卿に任ぜられた。勇気をもって諸侯に聞こえた。

 蘭相如は趙の人である。趙の宦者の令(長官)繆賢の舎人けらいであった。

 趙の恵文王のとき、王は楚の「和氏の璧」(楚の卞べん和が発見した名玉)を手に入れた。すると、秦の昭王がこれを聞いて、使者をよこして趙王に書をおくり、秦の十五城邑と璧と交換してほしいと願ってきた。趙王は大将軍廉頗や諸大臣と相談したが、璧を秦にあたえれば、秦の城邑はおそらく得られず、ただあざむかれるばかりであり、あたえなければ、秦軍が来襲するおそれがあり、方針がなかなか決まらなかった。また、秦への回答使をさがしたが、これもなかなか得られなかった。すると、宦者の令の繆賢が言った。

「わたくしの舎人の蘭相如は、回答使として適任です」

 王は問うた。

「どうして、それがわかるのか」

「わたくしは、かつて罪を犯しまして、ひそかに燕に亡げようと計画いたしました。すると、わたくしの舎人の相如がわたくしを止めまして、『あなたはどういうわけで燕王を知っているのですか』と申しますので、かつて大王のお供をして燕王と国境付近で会ったことがあり、その時に燕王がそっとわたしの手を握って友人になろうと言ったのだ、こうしたわけで知り合いになったので、行こうと思うのだ、と告げますと、相如はわたくしに、『そもそも、趙は強大で燕は弱小です。しかも、あなたは趙王に寵遇されておりますので、燕王はあなたと交際を結ぼうとのぞんだのです。ところが、いま、あなたは趙を亡げて燕に走るのです。燕は趙をおそれて、勢いとしてあなたを滞在させないことは必定です。そして、あなたを縛って趙におくりかえすでしょう。あなたは、肌ぬぎになって処刑台に伏し、罪を請われるにこしたことはありません。そうなされば、あるいは幸いに刑罰をまぬがれるかも知れません』と申しました。わたくしがその計にしたがいますと、大王もまた幸いにわたくしをお赦しくださいました。こうして、わたくしは、相如という人物が勇士であり、智謀もあると認めたのであります。回答使としてまず間違いはありません」

 そこで、王は蘭相如を召見して問うた。

「秦王が十五城をもって寡人わしの璧と交換したいと請うてきたが、璧をあたえるべきだろうか、どうだろうか」

「秦は強大で趙は弱小です。許かないわけにはまいりません」

「こちらの璧を取り上げて、城邑をあたえてくれなかったら、どうしよう」

「秦が城邑をくれるという条件で壁を求めておりますのに、趙が許かなければ、曲は趙にあります。趙が璧をあたえたのに秦が趙に城邑をあたえなければ、曲は秦にあります。この二策を比較してみますに、先方の言い分を許いて秦に曲を負わせる方がよろしいと存じます」

「だれか回答使とすべき者がいるだろうか」

「王がどうしても適当な人の心あたりがございませんのでしたら、わたくしに璧を奉じて使いさせてください。城邑が趙の手に入りますなら、璧は秦に留めましょう。城邑が入手できないのでしたら、きっと璧を完まっとして趙に帰ってまいりましょう」(完璧)

 趙王は、かくて、ついに相如を派遣して,璧を奉じて西のかた秦にはいらせた。

 秦王は章台(秦の王城内の台の名)に坐って相如を引見した。相如は璧を奉じて秦王に捧ほう呈した。秦王は大いによろこんで、つぎつぎに手渡して美人(女官名)や左右のものに示した。左右のものはみな「万歳」と叫んだ。相如は秦王が城邑を代償として趙にあたえる心意のないのをみてとると、すすみでて言った。

「璧に瑕きずがあります。それを王にお示しいたしましょう」

 王は璧を授けた。相如は璧を持ち、退いてすっくと立って柱に倚った。怒りのために頭髪は逆立って冠をつきあげていた。そして、秦王に言った。

「王は壁を得たいとお思いになり、使者を派して書面を趙王におくられました。趙王は群臣をことごとく召して審議しました。みなが、『秦は貪欲でその強大をたのみ、空言をもって璧を求めているのだ。代償の城邑はおそらく得ることができないだろう』と言って、審議の結果、秦に璧をあたえることをのぞみませんでした。しかし、わたくしは、『無位無冠の者の交際でも、あざむき合ったりはしない。まして、大国間の交際ではなおさらのことだ。それに、たった一個の璧のために強い秦の歓心に逆さからうのはよろしくない』と考えました。かくて、趙王は斎戒なさること五日、わたくしに命じて、璧を奉じて恭しく書面を秦の宮廷にとどけさせたのです。何故ならば、大国の威を畏れて、敬つつしみを修めたからです。ところが、いま、わたくしが到着いたしますと、大王はわたくしを賓客として待遇せずに、臣下ともどもご覧になり、その礼節ははなはだ倨おごっておられ、璧を入手なさると、これを美人に手渡してわたくしを翻弄しておられます。わたくしは、大王には代償として城邑を趙王にあたえる心意がおありにならないと判断しましたので、璧を取りかえしたのです。もし、大王がわたくしを追いつめようとなさるなら、わたくしの頭は、いま、璧とともに柱に撃ちつけられて砕けるでしょう」

 相如はその璧を持って柱をにらみ、柱に撃ちつけようとした。秦王は相如が璧を砕くことをおそれたので、謝って、役人を召して地図を案じ、指ゆびさしてここから先の十五都邑を趙にあたえるからと請願した。相如は、秦王がただいつわって趙に城邑をあたえるふりをしているだけで実は城邑を得ることは出來ないと判断して、秦王に言った。

「和氏の璧は、天下がともに伝えて宝としているものであります。趙王は秦を恐れて、それを献上しないわけにはまいりませんでした。趙王が璧を送りだすときには、五日間斎戒なさいました。いま、大王もまた、五日間斎戒して、九賓の礼(賓客を冷遇する非常に鄭重な儀式)を宮廷でおこなわれるべきです。そうなされば、わたくしはあえて璧をたてまつりましょう」

 秦王は、どうしても強奪することはできないと考えて、五日間斎戒することを許し、相如を広成伝舍こうせいでんしゃ(客舍の名)に宿泊させた。相如は秦王が斎戒してもきっと約定にそむいて城邑を代償とはしないだろうと判断して、従者に命じて、粗末な衣裳を着てその璧を懐中にし、間道づたいに亡げて璧を趙に届けさせた。秦王は五日間斎戒した後、九賓の礼を宮廷でおこない、趙の使者蘭相如を引見した。相如はやってきて秦王に言った。

「秦は繆公以来二十余君ですが、まだかつて、約束を固く守った君主はありません。わたくしは、王にあざむかれて趙にそむく結果になるのを心からおそれましたので、人に命じて、璧を持ってひそかに趙に帰らせました。しかし、秦は強大で趙は弱小です。大王がたった一人の使者を趙にご派遣になれば、趙はたちどころに璧を奉じてまいりましょう。いま、秦の強大をもってして、まず十五都邑を割さいて趙におあたえになれば、趙は、どうして、あえて璧を留めて罪を大王に得るようなことをいたしましょうか。わたくしは、大王をあざむいた罪が誅殺に該当するのを存じております。どうか、湯鑊とうかく(釜うでの刑)にしてください。ただ、大王におかれましては、群臣とつらつらご審議のほどを」

 秦王は群臣と顔を見あわせて驚き怒った。左右の者たちのうちには、相如を引き立てて立ち去ろうとする者もあった。すると、秦王は言った。

「いま、相如を殺しても、ついに璧を得ることはできないし、秦趙の友好を絶ってしまうだろう。むしろ、相如を厚遇して趙に帰らせた方がよかろう。趙王は、一個の璧をめぐって問題があったからといって、どうして秦をあざむいたりしようか」

 そして、ついに、相如を賓客として宮廷で引見し、儀礼を終えてから帰国させた。相如がすでに帰国すると、趙王は、彼が賢人だから使者として諸侯に辱められなかったのだと考えて、相如を上大夫に任じた。秦も城邑を趙にあたえず、趙もとうとう璧を秦にあたえなかった。

 

 その後、秦は趙を伐って石城せきじょう(河南省)を抜いた。その翌年、また趙を攻めて二万人を殺した。そして、秦王は使者を送って趙王に告げた。

「王と親睦するために、西河さいかの南の澠池びんち(河南省)で会合したい」

 趙王は秦をおそれて行きたくないと思ったが、廉頗と蘭相如が相談して、

「王がお出かけになりませんと、趙が弱く、かつ、卑怯であることを示すことになります」

 と言ったので、趙王はとうとう出かけた。相如がお供をした。廉頗は送って国境にいたり、王と訣別して言った。

「お出かけください。道程を計算してみますと、会遇の礼をおわってご帰還なさるまでは、三十日に過ぎません。三十日たってご帰還なさいませんときは、太子を王位におつけして、秦の野望を絶たせてください」

 王はこれを許し、ついに秦王と澠池で会合した。秦王は酒宴がたけなわになると言った。

「寡人わしは、ひそかに、趙王が音楽好きだと聞いている。ひとつ、瑟しつを弾いてもらいたい」

 趙王は瑟を弾いた。秦の記録官がすすみ出て、

「某年某月某日、秦王、趙王と会飲し、趙王をして瑟を鼓せしむ」

 と書いた。すると、蘭相如がすすみでて言った。

「趙王は、ひそかに、秦王が秦の音楽にご堪能だと聞いております。盆缻ぼんぷ(瓦の楽器。ほとぎ)を秦王に捧げて歌っていただき、おたがいに楽しみあいたいものです」

 秦王は怒って許かなかった。相如はすすみでて缻をすすめ、跪いて秦王に請うた。秦王は、缻をうって歌うことを承諾しなかった。相如は言った。

「大王とわたくしの距離は、わずか五歩です。わたくしの頸血を大王に濺そそぎましょうか(一身を犠牲にして秦王を殺す意)

 秦王の左右の者が相如を刃にかけようとしたが、相如が目を張って叱りつけると、みな退きなびいた。かくて、秦王は、しぶしぶ趙王のために一ぺんだけ缻をうって歌った。相如はふりかえって趙の記録官を召し、

「某年某月某日、秦王、趙王のために缻を撃つ」

 と書かせた。秦の群臣が言った。

「趙の十五城邑を献じて、秦王の寿を祝福してもらいたいものです」

 蘭相如が言った。

「秦の咸陽かんよう(秦の国都、陝西省せんせいしょう)を献じて、趙王の寿を祝福してもらいたいものです」

 こうして、秦王は、酒宴を終わるまで、ついに趙を屈服させることはできなかった。趙もまた、兵備をさかんにして秦にそなえたので、秦は行動をさしひかえた。

 すでに会合を終えて帰国すると、趙王は、相如の功績の偉大なことを認めて上卿に任じた。相如の位は廉頗の上になったのである。廉頗は言った。

「わしは趙の将軍として、攻城野戦の大功がある。蘭相如はただ口先ばかりの働きで、位はわしの上だ。それに、相如はもともと卑賤の出身だ。わしは恥ずかしくて、とても彼の下となるのに忍びない」

 そして、

「相如に会ったら、きっと侮辱してやる」

 と宣言した。相如はこれを聞いて、できるだけ廉頗と会わないように心がけた。朝廷に出仕すべきたびごとに、いつも病気と称して欠席し、廉頗と序列を争うことをのぞまなかった。その後、相如が外出して、はるかに廉頗を見かけると、車を引いて避け匿かくれた。すると、舎人けらいたちがみな諫めた。

「わたくしたちが、親戚のもとを去ってあなたにおつかえしているのは、ただ、あなたのご高義をお慕いしているからです。いま、あなたは廉君(廉頗)と序列を同じくしておられます。ところが、廉君があなたに対して悪言いたしますと、あなたはおそれて避け匿れ、異常なまでに恐懼しておられます。これは、凡庸の者でも羞じることです。まして将軍大臣であればなおさらでしょう。わたくしたちは不肖者で、これ以上おつかえできません。どうかお暇をください」

 蘭相如は固くとめて言った。

「きみらは、廉将軍と秦王とどちらが恐ろしいと思うか」

「秦王にはかないません」

「そもそも、秦王の威をもってしても、わたしは朝廷でこれを叱りつけ、その群臣を辱めたのだ。わたしが駑鈍だからといって、どうして廉将軍だけをおそれようか。ふりかえって考えてみると、強秦があえて兵を趙に加えないのは、ただ、わが両人(蘭相如と廉頗)がいるからだ。いま、両虎が闘えば、勢いとしてともには生きられない。わたしが廉将軍を避けるのは、国家の急を先にして私讎ししゅうを後にするからなのだ」

 廉頗はこのことを聞いて、肌ぬぎになって荊の鞭を背負い、賓客にとりなしてもらって蘭相如の門にいたり、謝罪して言った。

「鄙賤の人間たるわたくしは、将軍がこれほどまでに寛大にしてくださったのを知らなかったのです」

 こうして、二人はついに仲直りし、刎頸の交わりを結んだ。

 

 この年、廉頗は東のかた斉を攻めて、その一軍をやぶった。それから二年経って、廉頗はまた斉の幾き(邑の名)を伐ち、これを抜いた。その三年後に、廉頗は魏の防陵、安陽(ともに河南省)をせめて、これを抜いた。その四年後に、蘭相如は将軍として斉を攻め、平邑へいゆう(山東省)まで攻めこんで引きあげた。その翌年、趙奢ちょうしゃは秦軍を閼与あつよ(山東省)付近でやぶった。

 

 

・・・廉頗蘭相如列伝前半部分ここまで。後半はその内に書きます。

 

この趙と秦の故事から前半だけで成語が三つ得られています。

一、完璧

二、怒髪天を衝く

三、刎頸の交わり、刎頸の友

三つ目の刎頸の『友』とは、親友ではなくその友のために自分が首を切られても惜しいと思わない兄弟以上の一心同体の信念を抱く友人関係のことであります。この刎頸の友は、人が首の上に頭を載せて生まれてきてから死ぬまでの間に、この世でたった一人しか得ることができません。首も命もひとつしか無いから、今日はこの彼のために頸を切られて、あすは別の友のために頭を切り取って捧げることなど出來ない、すなわちひとたび首を斬られたらその瞬間にこの世とおさらばするからです。ゆえに当然人は誰でも刎頸の友はこの世でたった一人だけしか持つことが出來ないのです。

 

一方、『刎頸の交わり』は、その『交わり』のために自分が頸を切られても後悔しないという覚悟を持った交わりですが、これは相手は一人じゃありません、集団で刎頸の交わりを結ぶことができます。自分が頸を切られても死んでも、自分と同じ信仰のもとで同じ道を歩んでくれる同志たちとの共同生活、すなわち仏法の大慈悲に帰依する出家修行者の集団サンガ僧伽や、神機隊が刎頸の交わり集団となるのである。

現代に最も近い時代に『刎頸の交わり』をこの世で体現した地上唯一無二の仏心阿吽以心伝心拈華微笑集団が地上で唯一無二の日本国に厳然として存在しました。

それは、江戸幕府に大政奉還させ、明治維新回天の大業を成し遂げた『芸州広島藩 神機隊物語』穂高健一著定価(税抜き2000円)広島護国神社祈念発刊を読めば如実に分かります。

神機隊は私が中学高校と通った広島修道学園の前身の幕末学問所という歴史ある学問所を現代に伝えて頂きました。神機隊についてはわたしのブログに関連情報を載せているのでそちらをご参照下さい。

https://hougakumasahiko.muragon.com/entry/40.html

 

 

 

 

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